職場の美容院で、月に一度の「香り」に心が揺れた既婚の私。

月に一度だけ現れるお客様が、いつの間にか特別になっていました。
私は都内の美容院で働いています。
毎日たくさんのお客様と向き合い、髪を整え、笑顔でお見送りして、また次の予約へと気持ちを切り替える生活です。
そんな中で、月に一度だけ決まって来店される男性のお客様がいました。
最初は「いつも同じ周期でいらっしゃる、きちんとした方」という印象だけでした。
けれど、回数を重ねるうちに、声のトーンや、椅子に座る姿勢や、雑誌のめくり方の癖まで、自然と目に入るようになっていました。
私は妻であり母で、家庭を大切にしたいと思っています。
だから、こういう「気になる」という感情は、自分の中であってはいけないものだと、どこかで決めつけていたのだと思います。
それでも、心は理屈通りには動かないのですね。
近くにいるだけで香る匂いが、私の心の扉をノックしました。
私がその方を意識し始めたきっかけは、言葉ではなく「匂い」でした。
シャンプー台へご案内するとき、カットクロスをかけるとき、ほんの一瞬距離が近づくタイミングがあります。
その瞬間に、ふわりと香る匂いが気になったのです。
強い香水ではなく、清潔感のある、どこか落ち着く香りでした。
不思議とその香りを嗅ぐと、肩に入っていた力がほどけるような感覚がありました。
仕事中なのに、心の中だけが静かに柔らかくなるのです。
そして次の来店日が近づくと、私は自分でも気づかないうちに予約表を確認していました。
「今日は来る日だったかしら」と思ってしまう自分に、少しだけ罪悪感が混ざりました。
でも同時に、胸の奥に小さな灯りがともるような、久しぶりの感覚もありました。
夫の言葉で傷ついた心に、「優しさの気配」がしみ込んだのかもしれません。
私はこれまで、夫に求めた言葉やぬくもりを、乱暴に突き返されてきました。
だから私は、家の中で自分の気持ちを小さく畳み、なるべく波風を立てないように過ごしてきたのだと思います。
そんな私にとって、そのお客様は特別に何かをしてくれるわけではありません。
むしろ会話は必要なことだけで、距離感もきちんと保たれています。
それなのに、香りや、落ち着いた態度や、「お願いします」と言う声の丁寧さが、私の心の傷にそっと触れてしまったのだと思います。
私はずっと、誰かに大切に扱われたかったのかもしれません。
妻だから、母だから、我慢できて当たり前ではなくて、ひとりの女性として、静かに尊重される感覚が欲しかったのだと思います。
その方の近くで感じるのは、恋のときめきというより、「安心」の匂いでした。
それが余計に切なくて、私は自分の感情をどこへ置けばいいのか分からなくなりました。
「好き」になってはいけないのに、気になる気持ちは止められませんでした。
私は家庭を壊したいわけではありません。
息子たちを愛していて、毎日の生活を守りたい気持ちは本物です。
でも、気になる感情が芽生えたとき、私は自分を強く責めてしまいました。
「私は何をしているのだろう」と、鏡越しに自分の顔が少し遠く見えた日もあります。
けれど、人を好きになる前の入口には、案外、こんな小さなきっかけがあるのですね。
匂い、声、態度、言葉の端っこ。
それらが積み重なって、心がふっと揺れる。
私はその揺れを、必死に否定しようとしていました。
でも否定すればするほど、その方が来店された日の帰り道に、香りの余韻だけが残ってしまうのです。
何も起きていないのに、何かが起きそうで怖い。
その怖さと同じくらい、心が生き返るような感覚に、私は静かに惹かれていました。
私は今、「踏み込まない優しさ」を自分に約束しています。
この感情を、私は大切に扱いたいと思います。
ただし、踏み込まない形でです。
相手の方はお客様で、私は美容師です。
この関係が崩れると、仕事にも心にも傷が残ってしまいます。
だから私は、恋に走るのではなく、自分の内側に起きていることを丁寧に見つめたいのです。
「寂しかったんだね」「本当は大事にされたいんだね」と、自分に声をかけるように。
香りに惹かれたのは、相手の魅力だけではなく、私の心が助けを求めていたサインかもしれません。
夫婦の形を整える前に、まず私の心を立て直す必要があるのだと思います。
月に一度の来店日を、胸の奥でそっと受け止めながら、私は今日も仕事をします。
笑顔の裏で揺れる気持ちも、否定せずに抱えたまま、少しずつ自分を取り戻していくつもりでした。

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