古民家ランチの記憶が曖昧なのは、彼の顔がまぶしすぎたから。

外観からは想像できない広さと、骨董品に囲まれた空間でした。
古民家を改造したおしゃれなレストランで、彼とランチをしました。
入り口の佇まいは静かで控えめなのに、一歩足を踏み入れると、外観からは想像ができないほど店内が広くて、思わず息をのみました。
天井の高さ、木の香り、やわらかい光の入り方。
そこに、古い器や置物、細工のある小物など、いろいろな骨董品が自然に置かれていて、まるで時間がゆっくり流れている場所みたいでした。
私はその空気に包まれながら、彼が選んでくれたこの店に「連れてきてもらった」という事実だけで、胸の奥が熱くなっていました。
私の暮らしの中には、こういう“非日常”がほとんどありません。
だから、その空気に触れた瞬間から、心がふわふわしていたのだと思います。
彼と楽しくおしゃべりをしたのに、料理の記憶だけが抜け落ちています。
彼と楽しくおしゃべりをしたことは、確かに覚えています。
笑ったこと、目が合ったこと、彼が私の言葉を受け止めながら返してくれたこと。
でも、何を食べたのか、あまり覚えていません。
それが自分でも不思議で、帰り道に「私、何を食べたんだろう」と考えたくらいです。
きっと理由は二つあります。
ひとつは、彼とランチをすることが初めてで緊張していたこと。
もうひとつは、彼の顔を正面から見ていられる時間が、私にとって幸せでいっぱいだったこと。
その気持ちが、料理の味やメニューの名前よりも、強く私の頭の中を占めてしまったのだと思います。
ランチの後の「カフェ」という言葉に、私は別の願いを重ねてしまいました。
ランチの後、彼は「オシャレなカフェにいこう」と言ってくれました。
その提案は、きっと健全で、上品で、大人のデートらしいものだったと思います。
私も本来なら、そういう流れに乗るべきだったのかもしれません。
でも私は、その瞬間に自分の中の熱を抑えられませんでした。
あの日、雨の公園の車内で抱き合ったこと。
好きだと確かめ合ったこと。
それから毎日メッセージを重ねて、気持ちが膨らんでしまったこと。
そういう積み重ねが、私の中で「今日はもう少し近づきたい」という願いになっていたのだと思います。
私は自分でも驚くほど大胆に、「二人きりになれる所が良い」と提案してしまいました。
口にした瞬間、心臓が跳ねて、後悔が遅れて追いかけてきました。
“私、今なんて言ったの?”と。
昼の1時から夕方4時まで、男女が二人きりになれる場所は一つだけでした。
言葉にしてしまうと、もう戻れません。
昼の1時から夕方4時まで、男女が二人きりになれる場所なんて、一つしかありません。
自分で言っておきながら、私は急に現実が押し寄せて、喉が渇きました。
私は母で、妻で、家庭があって、守りたいものがあるのに。
それでも私は今、彼の前で「二人になりたい」と言ってしまった。
その事実は、私がもう“ただのときめき”では済まない場所にいることを示していました。
怖いのに、止められない。
恥ずかしいのに、嬉しい。
私はそんな矛盾を、笑顔の形に整えて座っていたと思います。
彼の「いいよ、そうしよう。」が、私の背中をそっと押しました。
彼は驚いたと思います。
でも彼は、私を責めるでもなく、からかうでもなく、ただ優しく「いいよ、そうしよう。」と言いました。
その言葉が、私の中の緊張をほどきました。
拒絶されない、という安心。
受け止められる、という温度。
私はその温度に、簡単に心を預けてしまう自分がいます。
彼は近くにあるホテルの場所を調べて、車を走らせてくれました。
その間の車内で、私は窓の外を見ながら、胸の中がざわざわするのを感じていました。
静かな道を進むほど、私の心は逆に騒がしくなっていきました。
私はいま、自分で選んだ。
彼に“連れていかれた”のではなく、私が望んだ。
その事実が、私を少しだけ大人にして、同時にとても危うくもしていました。
私はこの日、幸せと怖さを同じ手で握っていました。
彼と一緒にいると、私は幸せになります。
でも同時に、私はずっと「これでいいの?」と自分に問いかけています。
それでも、彼の前で正面から顔を見て、言葉を交わし、受け止められるだけで、私は満たされてしまうのです。
私の人生の中で、こんなふうに心が揺れたことはほとんどありませんでした。
だから私は、自分の揺れを止める方法を知らないまま、車の揺れに身を任せていました。
ランチの味は曖昧でも、彼の表情と「いいよ、そうしよう。」という声だけは、はっきり残っています。
この先、私はどこへ向かうのでしょう。
その答えはまだ分かりません。
でも少なくともこの瞬間、私は“望む”という感情を、久しぶりに自分に許してしまったのです。

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