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幸せの帰り道、私はいつも通りの「妻」を演じる自信がなくなりました

幸せに溺れそうな午後、私は「妻」に戻ることが怖くなりました。

ランチの後の時間は、初めて触れた種類の幸せでした。

ランチが終わってからの時間は、私にとって初めて感じる種類の幸せでいっぱいでした。
あの古民家レストランの余韻がまだ身体の内側に残っているのに、彼の隣にいるだけで、胸の奥がやわらかくほどけていくのが分かりました。
私はこれまで、誰かと一緒にいて「安心して浮かれる」という感覚を、ほとんど知らずに生きてきたのだと思います。
家庭を守るために、波風を立てないために、私は気持ちを抑えることが上手になりすぎました。
だからこそ、その抑えてきた場所に、彼の存在がすっと入り込んできたとき、私は嬉しさを通り越して少し怖くなったのです。
幸せって、こんなふうに静かに増えていくものなのですね。

彼の優しさは、言葉だけではなく動作にまで滲んでいました。

彼の優しい言葉はもちろんですが、それ以上に私の心に残ったのは、柔らかい動作や、繊細な触れ方でした。
急がせない。
乱暴にしない。
私が戸惑う一瞬を見逃さずに、ちゃんと呼吸が整うまで待ってくれる。
その当たり前が、私には当たり前ではなかったのだと、彼のそばで気づいてしまいました。
私は「大丈夫です」と言いながら、本当は大丈夫じゃないことを飲み込んできた人間です。
だから、雑に扱われないだけで涙が出そうになる自分がいて、その自分を恥ずかしいとも思いました。
でも同時に、これが私の本音なのだとも思いました。

「私は溺れてしまう」そう確信した瞬間がありました。

私はこの時間の中で、「私は彼に溺れてしまうだろう」と確信してしまいました。
大げさではなく、本当に、心が彼の方へ傾く音が聞こえるような感覚でした。
優しくされることに慣れていない人間は、優しさに出会った瞬間に、簡単にほどけてしまうのですね。
私は45歳で、母で、妻で、これまでいろいろな責任の中で生きてきたのに、恋の経験が少ない分だけ、加減を知らないのだと思います。
その「知らなさ」が、私を危うくします。
それでも私は、その危うさごと抱えながら、彼の言葉や温度に救われてしまうのです。
この幸福は、私の弱さを照らしているのかもしれません。

帰りの車の中で、私は「妻に戻る」苦痛を先に味わっていました。

帰りの車の中、窓の外の景色が流れていくほど、私の心は重くなっていきました。
自宅に帰れば、私はまた夫の妻として振る舞わなければならない。
そう思うだけで、苦痛に感じて仕方ありませんでした。
彼と過ごした時間があたたかかった分だけ、家に戻った瞬間の冷えた空気を、私は先に想像してしまったのだと思います。
夫の前で私は、明るく、普通で、問題のない妻を演じてきました。
でも今日の私は、その「演じる」という行為が、急に息苦しいものに見えてしまったのです。
幸せのあとに現実へ戻るというのは、こんなにも残酷なのですね。

今日は内緒にしたからこそ、私は“いつも通り”を演じなければなりません。

今日は、夫に彼と会うことは内緒にしています。
だから家に帰ったら、いつもどおりの妻を演じなければなりません。
ただいまと言って、夕飯の段取りをして、息子たちのことを気にして、夫の機嫌を損ねないように言葉を選ぶ。
私の暮らしは、そういう小さな調整の連続で成り立ってきました。
けれど今日の私は、心が彼でいっぱいになってしまっていて、その調整がうまくできる自信がありませんでした。
顔に出してはいけない。
声のトーンを変えてはいけない。
スマホを見てにやけてはいけない。
そんな注意書きが、頭の中にいくつも貼られていく感じがして、私は疲れてしまいました。

私は今、幸せと罪悪感の間で揺れながら、それでも前を向こうとしています。

私は自分が何をしているのか、分かっています。
家庭があって、守るべき暮らしがあって、その中で私は別の温度に手を伸ばしてしまっています。
それでも、今日感じた幸せを「間違い」と一言で切り捨てられないのです。
なぜなら私は、その時間の中でようやく「大切に扱われる」という感覚に触れたからです。
そしてその感覚は、私の中で長く枯れていた場所に、水を注いでしまいました。
だから私は、溺れそうになる自分を否定するのではなく、溺れないためにどうしたらいいのかを考えたいと思っています。
妻を演じることに押しつぶされないように、私自身の心も守れるように。
帰り道の車の揺れの中で、私はそんなことを静かに考えていました。


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