「夫婦は依存し合っていた」――彼の一言で見えた、私たちの歪んだ形。

彼に言われて初めて、私たちは「依存」していたのだと気づきました。
彼に言われて、私ははっとしました。
私の家は、お互いに依存し合っていたのだと思います。
私はずっと、夫の言葉や態度を「性格」や「疲れているから」と片づけてきました。
でもそれは、もっと根深いものだったのかもしれません。
依存という言葉は少し怖い響きがありますが、私たち夫婦には確かに「相手を自分の思い通りに扱っていい」という感覚が入り込んでいた気がします。
私は夫婦を守るために我慢してきたつもりだったのに、今振り返ると、その我慢が依存の形を固定してしまっていたのだと思います。
夫が私を傷つけるのは「甘え」――そう言われると、すとんと落ちました。
夫が私にひどいことを言うのは、甘え。
彼はそう言いました。
夫は、職場でそんなことをしたら仕事にならないのに、家では私を傷つけるようなことを平気で言う。
それは、私に対する甘えなんですね。
たしかにそうです。
職場なら、相手がどう感じるかを考え、言葉を選び、関係を壊さないように振る舞うはずです。
なのに家庭では、私だけが「耐える役」になり、夫は感情のゴミ箱のように私を使っていた。
それは愛情の裏返しではなく、「この人は離れない」という前提に寄りかかった甘えだったのだと思います。
私はその前提を壊す勇気がなかったから、ずっとそこに居続けてしまいました。
私もまた、夫に甘えていたのかもしれません。
そして、痛いことですが、私も以前は夫に甘えていたのかもしれません。
手を繋いで歩いてほしいとか、私だけを見てほしいとか。
雨の日には夫に職場まで送ってもらっていました。
私は「夫婦なんだから当然」と思っていたけれど、夫にとってはそれが負担だったのかもしれません。
もちろん、甘えること自体が悪いわけではありません。
夫婦は支え合う関係のはずですから。
ただ、私の場合は「甘える=つながりの確認」になっていて、拒絶されるほど不安になり、さらに求めてしまう。
そういう依存の入口に立っていたのだと思います。
夫も私も、別の形で相手に寄りかかり、相手を自分の都合で扱う瞬間があった。
その積み重ねが、今の歪みに繋がっているのかもしれません。
私が彼と一緒になりたいのは、依存関係から抜け出したいからなのでしょうか。
私が彼と一緒になりたいと思うのは、この夫婦の依存関係が嫌になったからでしょうか。
そう問うと、胸の奥が少し痛みます。
私は彼を好きです。
でも同時に、彼が私の“救命ボート”になっている感覚も否定できません。
夫の言葉に傷つき、家の空気に息苦しさを感じるほど、私は彼の温度に逃げ込みたくなる。
それは恋でもあり、避難でもある。
だから私は時々、自分が彼を「好き」というより「必要」と感じてしまっているのではないか、と怖くなります。
もし彼がいなかったら、私は離婚を考えただろうか。
もし夫婦の依存が崩れたら、私は私で立てるだろうか。
そんな問いが、夜になると浮かんできます。
では、私たちは本当に離婚できるのでしょうか。
だとすると、私たち夫婦は本当に離婚できるのでしょうか。
この問いは、とても現実的で、私は逃げたくなります。
依存し合っていた関係は、嫌い合っていても簡単には切れないことがあります。
なぜなら、苦しいのに“慣れている”からです。
役割が決まっていて、日常の回し方が固定されていて、そこから外れるのが怖い。
私は長い間「妻」という型の中で生きてきたので、その型を外すことに恐怖があります。
夫もまた、私がいることを前提に生活を作ってきたはずです。
だから離婚は、感情の問題だけではなく、生活の再設計になります。
怖いに決まっています。
それでも私が今考えたいのは、「依存を手放した先の私」です。
私は、夫を憎みたいわけではありません。
ただ、自分の尊厳が削られる関係からは抜け出したい。
そして、彼と一緒になりたいという願いが、もし“逃げ”の延長にあるのだとしたら、私はそこを丁寧に見つめたいです。
依存を手放した先でも、私は私として立てるのか。
彼のいない時間にも、自分を保てるのか。
助けを求めるなら、彼だけではなく、友人や専門家や制度にも頼れるのか。
こういう現実的な土台がないまま進むと、私はまた別の形の依存に移るだけになってしまう気がします。
私はもう、誰かの機嫌の中で生きる人生に戻りたくありません。
だからこそ、離婚という選択も、恋という選択も、「自分を取り戻す」という軸で考えたいです。
怖いけれど、私はその問いから逃げずに、少しずつ答えを探していこうと思います。

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