既婚同士だと知って、現実に戻ったはずなのに…。
夫の言葉に傷つきながら、画面の向こうの明るさに救われる夜。

彼も既婚者だと知った瞬間、胸の奥がすっと冷えました。
髪を切りながら交わす会話は、ときにこちらの人生の輪郭まで照らしてしまいます。
あの人は私の言葉を遮らず、優しく受け止めて返してくれる方でした。
私はその丁寧さに救われて、「扱いが上手い人だな」と思うようになっていました。
けれど、ある日の何気ない話の流れで、彼も既婚者だということが分かりました。
その瞬間、私の胸の中にあった小さな灯りが、現実の風に吹かれて揺れたのを覚えています。
安心と同時に、強い緊張が走りました。「ここから先は、踏み込んではいけない」と自分に言い聞かせるような感覚です。
私は家庭を大切にしたい。息子たちも愛している。だから余計に、危うい方向へ気持ちが流れるのが怖くなりました。
そして私は、彼に対して少し距離を置くようになりました。言葉を選び、視線を長く留めないようにして、いつも通りの美容師とお客様に戻ろうと決めたのです。
距離を置いたはずなのに、私は彼のSNSを見てしまいます。
距離を置くと決めたのに、指先は時々、私の意思より早く動きます。
仕事が終わって、家のことをして、ようやく一人になれるほんの短い時間。私は彼のSNSを開いてしまうのです。
画面の向こうの彼は、いつも楽しそうに見えます。友人との写真、趣味の話、何気ない日常の景色。そこに大きなドラマはないのに、私はなぜかワクワクしてしまいます。
それは恋というより、乾いた心に水が落ちる音に似ています。
「こんな世界があるんだ」と思うだけで、少し息がしやすくなるのです。
現実では、私は母で、妻で、忙しさに追われて、誰にも見せられない顔をたくさん抱えています。
だからこそ、彼の投稿の明るさが眩しくて、同時に羨ましくて、見てはいけないと思うほど見たくなってしまうのだと思います。
家では今も、夫の心ない言葉が私を刺します。
一方で、私の現実は家の中にあります。
夫から投げかけられた「他に彼を作ればいい」「女性用風俗へ行けばいい」という言葉は、過去の一度きりではなく、今も形を変えて刺さってきます。
私はただ、夫に向き合ってほしかっただけなのに、夫は私の寂しさを笑うように扱いました。
それでも私は家庭を壊したくなくて、息子たちの前では何事もないように振る舞ってしまいます。
でも、平気なふりをすればするほど、自分が薄くなっていく感じがします。
夫婦は仲良くするべきだと信じてきた私は、仲良くする努力さえ拒まれたとき、どう立っていればいいのか分からなくなりました。
誰にも大切にされていないような気持ちになる夜があります。言葉では説明できないのに、胸だけが重くて、目の奥が痛くなるのです。
狭い世界に閉じ込められて、私は自分を惨めに見つめていました。
私の世界は、気づけばとても狭くなっていました。
家と職場と、家族の予定と、食事の支度と、洗濯と、連絡帳と、時間に追われる日々。
「暇がない」と言えば聞こえはいいけれど、本当は、自分の心に目を向ける余裕がないだけなのかもしれません。
そして、そんな余裕のなさを抱えたまま、夫から心ない言葉を投げられると、私は自分の価値が削れていくように感じます。
鏡に映る自分が、どこか疲れていて、なのに弱音も吐けなくて、ただ役割だけを回している人に見える瞬間があります。
惨めだと思うのは、きっと「私の人生はこんなはずじゃなかった」と心のどこかで思っているからです。
あの厳格な家で育った私は、選べない人生に慣れてしまっていました。だから今も、苦しいのに逃げ方が分からないのだと思います。
それでも私は、画面の光に逃げる自分を責めきれません。
彼のSNSを見ることは、正しいことではないかもしれません。
既婚者同士で、距離を置くべきだと分かっています。
でも私は、その数分間だけ、自分が「ひとりの女性」に戻れる気がするのです。
母でも妻でもない、ただの私として、心が動く感覚を確かめているのかもしれません。
そしてその感覚が、今の私には必要だったのだと思います。
夫の言葉で壊れた部分を、誰かの優しさの気配でそっと撫でたい。そうしないと、私は毎日を続けられない気がするのです。
ただ、私は分かっています。
画面の光は一時的で、現実の痛みを根本から消してはくれません。だからこそ私は、この気持ちを恋に育てるのではなく、私自身の心の叫びとして受け止めたいのです。
私が本当に欲しいのは、誰かではなく「自分を大切にする感覚」なのかもしれません。
今の私が惨めなのは、夫に拒まれたからだけではなく、自分の気持ちを後回しにし続けてきたからだと思います。
「妻だから」「母だから」「家庭のために」と言い聞かせて、私は自分の心を抱きしめることを忘れていました。
彼のSNSにワクワクするのは、彼が特別だからだけではなく、私の心が生きる場所を探しているからかもしれません。
私は、誰かに救われたいのではなく、本当は私が私を救う必要があるのだと思います。
狭い世界に閉じ込められているなら、少しずつ窓を開けたいです。
話せる人を作ること、心が休む時間を確保すること、必要なら専門家に相談すること。そういう当たり前の手段を、私は「大げさ」と切り捨ててきました。
でも、もう自分を小さく畳むのはやめたい!
惨めな自分を見つめるだけで終わらせずに、そこから一歩だけでも外へ出られるように、私は私の味方でいたい!
私はそう思うようになったのです。

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